2025 01,29 07:55 |
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2006 04,13 00:52 |
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4月13日といえば、慶長17年、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島(舟島)で決闘を行った日とされています。こういう話を聞くと、必ず一度は突っ込みを入れたくなるのも私の性分です。今回の話題は、ここでいう「4月13日」とは何ぞやということについてです。
慶長年間といえば江戸時代の初期ですから、その頃わが国で使用していた暦法はいわゆる太陰太陽暦(旧暦)です。つまり、この「4月13日」という日付も、太陰太陽暦に基づくものであって、現在使用している協定世界時(UTC)とは全く異なる体系によるものです。 では、太陰太陽暦とはどういった体系だったのでしょうか? 一口に太陰太陽暦といっても、実際には何度も改暦が行われています。巌流島の決闘の時代には、「宣明暦」といって、中国伝来の古い(元祖である中国では何世紀も前に使用されなくなった)暦法を使用していました。 当時の暦は暦道といって、天文道とともに陰陽道として朝廷が牛耳っていたようです。ところが、朝廷の衰退と、暦道の技術的な停滞によって、長い間改暦が行われないままになっていたのです。この状態は、貞享2年(1683年)に、初の国産の暦法である貞享暦に改暦されるまで続きます。 なぜ、太陰太陽暦が改暦を必要としていたのかというと、やはり暦法の精度がそれほど高くなかったからです。太陰太陽暦というのは、地球の公転周期と月の朔望周期の両方に同期させなければならず、そのどちらも非常に半端な割り切れない値であったため、なかなか精度が出せなかったのでしょう。 何世紀も改暦されないままだと、実際の天文現象と暦が同期しなくなってきます。そこで、さまざまな民間暦が登場し、一般的にはそれらが使用されるようになっていきます。織田信長が、朝廷に対して、尾張で使用していた民間暦を押し付けようとしたエピソードも、この辺りの事情が絡んでいるわけです。 さて、宣明暦や貞享暦といった細かな分類はともかく、太陰太陽暦全体を通していえる基本的な概念というのがあります。それは、1ヶ月は朔(新月)から始まるということ、1年は二十四節気によって季節との同期をとるということです。 月の朔望周期(満ち欠けの周期)は29.53日ですから、概ね29日の「小の月」と30日の「大の月」が交互に繰り返され、ときどき「大の月」が連続することになります。単純に計算すると、1年は29.53×12=354.36日となりますが、実際の1太陽年は365.24日ですので、10.88日足りません。つまり、3年弱が経過すると、丸1ヶ月のずれが生じるわけです。そこで、19年に7回の割合で「閏月」を挿入し、このずれを調整しました。 「閏月」は、閏四月であれば、四月と五月の間に挿入されました。いつ閏月を挿入するかは、計算によって求まるはずなのですが、不安定な時代には、政治的な事情でルールを逸脱した閏月の配置が行われたこともあったようです。 というわけで、新暦と旧暦では日付が異なるのですが、では、巌流島の決闘は新暦でいうところのいつだったのでしょうか? おそらくは、1612年年5月13日ごろかと思います。正確なことがいえないのは、この4月13日というのが民間暦かも知れないわけで、だとするとよほどの専門家でなければこれ以上は追跡できません。さすがに私もそこまではできませんので、今回はこの辺にしておきます。 PR |
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