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2008 05,02 03:27 |
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2007 11,02 01:04 |
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ウィキペディアでも触れられているようですが、子供の表記がときどき問題になるようです。この類の話は時々沿おうぐうします。例えば、「障害者」は「障がい者」と表記すべきだとです。早い話が一種の言葉狩りに過ぎないわけですが、こだわる人はこだわるようです。
私の場合、「子ども」または「こども」と表記するのは、基本的には次のケースだけです。
向きになって言葉狩りが行われるのは、その言葉に差別性があるとされるときだと思います。しかし、仮に「子供」と書く人に差別的な意図があった場合、それを「子ども」または「こども」と表記させたからといって、差別の心が消えるわけではありません。 同様に、「子供」という表記を見て差別されたと被害妄想に陥る人の場合、「子ども」または「こども」と書かれていれば、被害妄想から逃れることができるのでしょうか。どう考えても、そんなことはあり得ません。 結局のところ、言葉狩りを進めるのは、自らの人権意識が高いことを主張することを目的としているか、あるいは、そうした人たちからのクレームを回避するための対策に過ぎず、いずれにせよ、本当に差別の心を持った人たちや、実際に差別される人たち、そして、実情に関わらず被害妄想を持つ人たちは、完全に蚊帳の外に置かれているような気がしてなりません。 第二次大戦の折、ナチスドイツの矛先をシリアからロシアに、ゲマトリアを用いて変えさせたという話がありますが、差別性がある(とされる)言葉の文字を入れ替えたぐらいで人の心が変わるのであれば、それはもはやオカルトの領域です。 |
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2007 02,10 13:39 |
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今日のお昼にアニマックスでやっていた「フランダースの犬」を見ました。このアニメは我々の世代では知らない人はいないぐらい有名ですし、実際私も子供の頃には見ていたのですが、子供の頃に見るのと、今見るのとではずいぶん印象が違います。
この作品はあたかも悲劇の代表格のようにして扱われ、私自身も以前は可哀想な話という印象を持っていました。しかし、今見てみると、アニメの演出はともかく、どう見てもハッピーエンドに見えてくるのです。 考えてもみてください。主人公のネロ少年は、それまでずっと嫌われていたコゼツ(アロアのお父さん)の誤解も解け、夢にまで見たルーベンスの2枚の絵を見ることができ、唯一の願いが叶います。そして、愛犬のパトラッシュと共に、天に召されて神の祝福を受けるわけです。人間の死にざまとしては決して悪いものではありません。 確かに、貧乏で身寄りもなく、教育も受けられなければ、ひもじい思いもしたのでしょうが、そんな世俗的な薄幸さが些細なことに思えるほどの至福に満ちたラストシーンでした。 この作品の中で、最終的にもっとも可哀想だったのは、ネロではなくアロアだと思います。地獄に堕ちたわけでもなく、天に召されたのですから、死んでいくものは極楽です。しかし、残されたものは、なおも世俗にまみれた苦悩と付き合っていかなければならないからです。 そういう意味では、同じような結末を迎える「マッチ売りの少女」、「人魚姫」、「幸せの王子」といったアンデルセン童話の作品も、必ずしも悲劇ではなく、ハッピーエンドなのかもしれませんね。 |
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2006 09,15 01:46 |
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今回のタイトルは「孫子」の謀攻篇の中の有名な言葉ですが、我が家では、最近どういうわけか夫婦や親子の会話でこの手の話題がよく出てきます。
うちの長男も反抗期なので、いろいろと父である私を挑発し、闘いを挑んできます。そしてその度に返り討ちにあって、ボコボコにやられています。負けず嫌いな長男は何度でも挑んでくるわけですが、それを諭すのに使うのがこの言葉です。実際にはもっと分かりやすい言い回しに変えてはいますが...。 「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」 戦って勝つ力を身に付けることは大切ですが、無闇にその力を行使するのは最低です。戦わずに相手の戦意を挫くか、懐柔して仲間に取り込め、と、わずか4歳の子には過酷な要求をしているのですが、なぜかうちの子は、その手の駆け引きには非常に長けています。以前は「闘うぞ!」といって挑んできていたのが、いつからか「闘うわけじゃない」といって、少しずつ段階を踏んで、巧妙に要求を通すようになってきました。 子供というのは、何とかの一つ覚えで、上手い方法を見つけるとそればかりになりがちなので、今後は次のことも教えないといけないようです。 「勝兵はまず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵はまず戦いて而る後に勝を求む。」 いくら戦わずして勝とうとしても、どうしても戦わざるをえない状況に陥ることはあります。戦うなら勝たなければなりません。悔いの無いように全力で戦って玉砕というのは、スポーツならそれでもよいかもしれませんが、現実にはそんな危ない橋は渡れません。徹底的に敵の戦力や状況を分析し、自分のそれも同様に分析した上で、勝算を得た上で戦いに臨まなければなりません。「戦って勝とうとする奴は阿呆」なのです。 そして、もう一つ重要なことを伝授する必要があります。人は時に、負けると分かっていても戦いに臨まなければならないことがあります。そのときどうするかです。これは孫子ではなく、私自身の言葉で伝えることにします。 「負けても構わないが、大負けはするな。大負けする奴は最悪だ。」 と。 日本では戦うことを前提とした議論がとかくタブー視されますが、こうした基本的なことは、子供が小さいうちから叩き込んでおく必要があるのではないかと思います。そうでなければ、安易な暴力に走ったり、国防問題に関しても何が正しいのか判断できないまま、そのときの雰囲気で選挙投票したり(棄権したり)してしまうのではないかと思います。 戦えば自分もただでは済まない。仮に自分のダメージを最小に抑えた上で、相手を壊滅させたとしても、それでは後に禍根を残すばかりか、屈服させた者の力を利用することができなくなる。 少し考えれば当たり前のことですが、やはり身体で覚えさせる必要がありそうです。 |
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2006 07,05 01:32 |
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宗教論争とか神学論争というと、不毛な議論の比喩として使われることがおおいのですが、実をいうと、私はこの宗教論争というのが嫌いではありません。私はプログラマなので、goto論争を初めとしたプログラミングに関する論争はもちろん、コンピュータ全般に関する論争もいろいろ目にします。
コンピュータが扱うデータのバイトオーダーが、リリパット国の争い*1に例えられるように、確かに不毛といえば不毛なのかもしれません。もちろん、リリパット国のように、激しい感情論を展開し、結果として戦争という暴力に発展するのは許されませんが、純粋に議論や検討を重ねるのはそんなに悪いことではありません。 リリパット国のリトルエンディアンとビッグエンディアンの件にしても、議論を進める過程で、卵の外殻の機械的特性や、作業効率、肉体的・心理的な効果など、いろいろと調査・研究が必要になることでしょう。それならば、錬金術の研究によって化学が発展したように、例え直接の成果は期待できなくても、それ以上に重要な成果が得られることもあるのです。 一番問題なのは、「宗教論争だ」というレッテルを貼り、議論や検を行うこと自体を否定してしまうことではないかと思います。これまで何度も不毛な議論が繰り返されてきたことであっても、そうした議論を知らない人たちは、やはりその議論を一度は経験すべきであるにも関わらず、その機会を奪ってしまうのはやはりよくないことでしょう。 傍目には不毛な議論に見えたとしても、それらに参加したものにとっては、(副次的であったとしても)何らかの成果が得られていることはよくあります。果てしない泥仕合の末、嫌な思いをするだけで終わるか、転んでもただでは起きることないかはその人次第です。 私に関していえば、(比喩ではない)本当の宗教論争も含めてウェルカムです*2。 *1 スウィフトの「ガリバー旅行記」に登場するリリパット国では、卵を割るときに、細い側から割るべきであると主張するリトルエンディアンと、太い側から割るべきだと主張するビッグエンディアンに分かれて戦争をしていた。 *2 ただし、監禁・拉致・脅迫・業務妨害行為はご遠慮ください。 |
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